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エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナとアルベルト・グラナードが旅したルートMAP(南米大陸) | |
ハバナ(キューバ)生まれの写真家アルベルト・コルダによって撮影された“チェ・ゲバラ”の肖像写真「ゲリラ・ヒーロー」は、あまりに有名だ。現在では、反体制のポップ・イコンとして、Tシャツやポスターなど商業的に利用されているが、街で彼をモチーフにした衣服を身をまとっている若者に出会うと、歴史的背景を充分理解した上でのことか?と、いつもそんなことを考えていた。彼の佇まいに惹かれはするものの、政治的思想のない自分が、たやすく彼をモチーフしたアイテムを身に付けることは恐れ多い、そんなことを思っていた。 映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、彼が“チェ・ゲバラ”と呼ばれる以前の、一人の若者エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの、日記にもとづくロード・ムービーである。 * チェ・ゲバラの“チェ”とは、“おい”とか“ねぇ”という呼びかけの言葉。彼がキューバ人仲間と議論する時、しきりにこれを連発することから、親しみを込めて後にこう呼ばれるようになった。 1952年、輝く瞳に希望をたたえた23歳の医学生エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、中学の同級生の兄であるアルベルト・グラナードと共に、故郷アルゼンチンをあとにして、南米大陸を縦断する旅に出発した。 旅の脚は、中古のバイク「ノートン500」、名前は「ポデローサ(強力)U号」。名前とは裏腹に、今にも壊れそうなオンボロのバイクをおともに、無謀とも言える二人の旅は始まる。 ブエノスアイレスから南部のパタゴニアへ下り、チリに入って太平洋岸を北上する。バイク・船・ヒッチハイク・徒歩 あらゆる手段で、ペルー、コロンビアを通ってベネズエラのカラカスへ。半年にも及ぶ壮大な(というか、聞いただけでも気の遠くなる)旅。 地図でしか知らなかった南米大陸を自分たちの足でまわる、お金も泊まるあてもない貧乏旅行。今で言うバックパッカーである。 そんな二人の旅を通して、まず、彼の意外な一面を知って驚いた。後にラテン・アメリカ革命に身を投じていった彼のイメージは、「タフガイ」。しかし実際の彼は、幼少の頃から喘息の発作に苦しむという「弱さ」も持ち合わせていたからだ。そんなこともあって、医学(アレルギーの研究)の道を志していたのかもしれない。 また、喘息にもかかわらず、ラグビーやサッカーなどの激しいスポーツを好んだということからも、彼の精神的な強さを知ることができるし、アルベルトのような よい意味で柔軟な(言い換えるとお調子者的な)対応とは反対に、ストレート(まっすぐ)な言動からは、彼の生き様の原点を垣間見たようでもあった。そして、そんな彼のまっすぐさが、私自身の最も共感できる部分でもあった。 最初は単なる思い付きから始まった旅だったかもしれない。未知の世界への好奇心と憧れ。われわれも抱く、ごく一般的な感情。特に旅をこよなく愛するものにとっては、本当にごく当たり前の。しかし、彼らはこの旅で、様々な人たちと出会い、様々な経験をする。世界で何が起きているのか、そして世の中の不公平さを目の当たりにし、心動かされる。 映画の中で一番印象深いのは、ペルーのハンセン病療養所での患者たちとの交流シーンだ。 ハンセン病は紀元前から存在する病気で、感染しないにもかかわらず、正しい理解をされずに、患者・家族たちは多くの偏見と差別を受けてきた。 彼らがこの旅で訪れたサン・パブロの療養所も、アマゾン川をイキトスから200マイル下った、いわば隔離されたところにある。シスターたちの勝手な規則で、手袋をすることを義務付けられていたにもかかわらず、手袋をすることを拒み、二人は患者たちと交流を深めていく。 彼が喘息という持病を持っていたことは、弱者への大きな慈愛につながっていたのかもしれない。そんな慈愛が正義感へとかわり、国境を越えて、自らの命を懸けてでも使命をまっとうしようとしたのだろう。 この地を立つ前夜、ゲバラはこうスピーチしている。 『僕らのような者が皆さんの代弁者にはなれませんが、今回の旅でより強く確信しました。便宜上の国籍により国が分かれていますが、我々南米諸国は一つの混血民族なのです。ゆえに、偏狭な地方主義を捨ててペルーと統一された南米大陸に乾杯しましょう。』と。 チェ・ゲバラの夢は、ラテン・アメリカの国々にひとつの架け橋をつくることだった。 |
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若きエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナを演じているのは、大好きなメキシコ人俳優ガエル・ガルシア・ベルナル。チェ・ゲバラの死後10年以上たってから生まれたガエルだが、子供の頃から身近な存在であった彼をリスペクトし、この映画を彼へのオマージュだと思い演じていたようだ。ガエルの無垢で、しかし骨のある存在が、革命家でもヒーローでもない23歳のひとりのラテン・アメリカの青年を見事に体言している。優しくて繊細でまっすぐな若き日のゲバラが、政治色を抜きにして表現されているのは、彼の演技力いや、資質なのだと思う。 現在(2004年時点)キューバに暮らす旅の相棒アルベルト・グラナードを演じるのは、アルゼンチン生まれのロドリゴ・デ・ラ・セルナ。この名前を聞いて気づく人もいると思うが、彼はチェ・ゲバラの‘はとこ’にあたるそうだ。それが判明したのは、キャスティングの後だということ。 余談だが、映画を観た直後に、公開記念の「チェ・ゲバラ写真展」に行った。アルベルト・コルダ、ラウル・コラレス、リボリオ・ノバル、ロベルト・サラスらによって撮影された彼の写真を観る事ができた。現場に足を運ぶことを大切にしていた彼が、労働者と共に働く写真など、貴重な写真の数々であった。‘はとこ’であるロドリゴ・デ・ラ・セルナには、どこかゲバラの面影がある。 監督は、「セントラル・ステーション」で数々の賞を受賞したウォルター・サレス。彼もまたラテン(ブラジル)の生まれだ。制作総指揮のロバート・レッドフォードに、ハリウッドの俳優ではなくラテン・アメリカの俳優を起用すること、スペイン語の作品にすることを条件として出し、それを承諾され、監督を引き受けたという。 音楽担当は、南米No.1プロデューサーのグスタボ・サンタオラージャ。映画のクライマックスで、彼らが出会ってきた人々がモンタージュ写真のようにスクリーンに映し出される。この時流れる「ウスアイアからラ・キアカ」という曲は特に素晴らしい。哀愁に満ちた民俗楽器チャランゴとロンロコの音色が心に染み渡り、深い感動を覚えた。 |
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【その後のチェ・ゲバラのあしどり】 |
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この旅の後、彼は医学部を卒業し、医者の資格を取得。 当時カラカスにいたアルベルトと再会するために再び旅に出るが、ボリビアで農地改革の現実を目撃し、旅のルートを変更。社会主義政権下のグァテマラに向かう。しかし政権は倒され、逃れたメキシコで亡命中のフィデル・カストロと運命の出会いをすることとなる。 キューバ革命に参加し、勝利したあとは、キューバで様々な重要ポストについていたにもかかわらず、カストロとの主義の違いから、キューバを去る。アルジェリア・コンゴと革命行を続けたあとは、体を壊して一旦はキューバへと戻る。最後は中南米に新たな戦場を求め、渡ったボリビアで1967年39歳の短い生涯をとげる。銃殺だった。 30年後の1997年、彼の遺骨は、ボリビアからキューバに送り返され、カストロの手でサンタ・クララの霊廟に埋葬された。3日間にわたって首都ハバナで行われた追悼式典には、25万人の市民が参列した。 |
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